八人のアダム開発日記_6
現実
19/05/20
シティに関連したシステムの完成度は50%を超えた。
もう少しでゲームになる。
もう少しだ。
とはいえ、ウディコンまではあと約二か月。
六月からストーリー・演出に入れなければ、悲惨なことになるだろう。
現実は、自分の甘い予想の通りにはならない。
絵もシステムも音楽も、そしてなによりもシナリオも、
自分の手でやってみたいと思っていた。
アイディアはあった。あったから始めた。
それがうまくいけば、最高のゲーム(物語)になるだろうと思っていた。
たぶん、創作するひとの多くはそう思って始めている。
ただ、それを形にして、他人に展開するのに必要な労力は、途方もないものだった。
話は変わるが、少し前に、池袋を歩いた。
私は10代、20代の多くをこの町で過ごした。
山手線、埼京線、有楽町線、副都心線、丸ノ内線、西武池袋線、東武東上線など、
多くの路線が交わるでかくて汚い駅だ。
私は久しぶりにこの池袋を歩きながら、
どことなく居心地が悪かった。
元から好きな駅ではないが、それでもこのような居心地の悪さはあまり感じたことがない。
帰りの電車に揺られながら、
その居心地の悪さはどこからくるのだろう、と考えていた。
そして、ひとつの仮説に行き当たった。
私は、
「自分はこの町に歓迎されていない」ように感じていた。
駅前には多くの若者がいた。10代、20代の若者だ。
彼らは、この町の景色としてふさわしいように感じられた。
私は、自分がこの町にふさわしくないような気がした。
少なくとも、彼らほどにはふさわしくない。
10代のころからよく行った『屯ちん』というとんこつラーメン屋でラーメンをすすり、
所用をかたづけると早く帰りたい気持ちになっていた。
私は、老いるのが怖い。
最近、なにかがひたひたと自分の後ろを歩いているのを、感じる。
「それ」は私の肩をつかもうとしている。
私や私と同年代の人々は、皆それにつかまりそうになっている。
若さというのは、なにをしなくても美しいものだ。
だが、年をとると、
それなりの努力をしなければ、
醜い存在になってしまう。
アラスカの古老のように、
年をとっても一族の皆から慕われるようであれたらいいけれど、
今の日本にそういったシステムは皆無だ。
とりあえずの年功序列のシステムはあるけれど、
それは敬意でもなんでもなく、和を乱さないためにある。
役立たずになりたくない。
力が欲しい。
力を得るために努力をする時間が欲しい。
・・・とりあえず今は、ゲーム制作のおかげで、
なにかと戦っている感覚がある。
そこには苦しさもあるけれど、
きっとありがたいことなのだ。
変わっていくことは、喜びだ。
変化することがなくなれば、
わたしはすぐさま「それ」につかまってしまうだろう。
頼むから、もう少し待ってくれよ。