top of page

​ウディコン後に想うこと~他者と私~

19/09/01

ウディコンが終わって、反省のブログを書いて、コメントに返事を書いて、

ようやっと日常が戻りつつある。

 

終わったときは身体の芯がカチコチで、どこか物事に対して無感動だったのだけど、

少しづつ感覚と色彩が戻ってきた。

今はほかのひとのウディコン作品をプレイする余裕が出てきた。

 

とても楽しい。

 

純粋にユーザー視点に立てる心境はなかなか得難いものだ。

そして、人の作品をやっていると、作品が鏡となって、自分を写し出す。

「すべての他者は己の鏡である」と私は感じる

ということで以下では、

私とは何かを教えてくれるのが、今の私にとってはウディコンである

という話をする。

・・・この時点で気持ち悪い人や嫌な予感がする人はこのサイトから逃げよう。

--------------------------

何かを見たり聞いたり接したりしたときに得られる感覚や感情。

人は、それら接したものに対して、肯いたり、愛想笑いでごまかしたり、何もわかってねえなと歯ぎしりしたり、申し訳なく思ったりするわけだが、それらはすべて他者と接するからこそ得られた感覚である。

他者は自分という存在に自分でも気がつかなかった輪郭を与えてくれる。

「それに対してこう思うという私」を私は知らなかった。

つまり、「私に私を教えてくれるのはあなた(他者)だ」といえる。

その理論でゆくと、私は今、

「あなたにあなたとは何かを伝えている」ともいえるだろう。

私のこの文を読んだり、私の作った作品を経験したことで、

結果そこには好悪・愛憎・侮蔑・敬意・無関心・無感情といった、

なにかしらの感覚があったはずだからだ。

 

他者は鏡

(きっと偉い人が、もっとかっこいい言葉でこのことは伝えているのだろうけれど。)

さて。

ここで考えたいのは、

そこで鏡に映る私は必ずしも本当の私ではない、ということだ。

 

たとえば、鏡に写るのは、血色の悪い心を病んだ人間かもしれない。

だが、それを見てどう対処するかはその人次第である。

今はよくない状態だとわかれば、風呂に入り、夜はよく眠り、食事をバランス良くとり、軽く運動する。

そうすれば、鏡に写る自分の心身は健康に改善してゆく可能性がある(※そういった健康体になりたいかはまた別問題だが)。

鏡があれば、自身を認識できる。

自身を認識できれば、自身は変えていける。

ウディコンを終えたことで私は鏡を得て、

やっと少しずつ自分自身を見なおすことができる日々を送っている。

ウディコン中には、ポジティブなメッセージ、ネガティブなメッセージ、無関心や無反応といった様々なメッセージを受け取った。

これらは実に貴重な、素直な反応である。

コンテストという場でなければこれほどの反応は得られない。

 

さて、ここで、作品というものに関して少し考えてみよう。

ゲームとか作品いうのは、

恐ろしいほどに様々な非言語情報が伝わってしまうものである。

それは食べ物のようなものである。食べ物の影響を言語化するのはほとんど不可能だが、それは受け取った人の身体のすみずみに時間をかけて染み渡り、その人の一部になる。

 

今回のウディコンを通して人の体内に入ったそれぞれの作品は、多くの人に様々な影響を与えただろう。

そして、それぞれの作品に与えられた評価や反応も、それぞれの作者に大きな影響を与えていることだろう。

 

評価したひとたちが自覚しているかは人それぞれだろうが、

評価もまたウディコンの生み出した作品である。

 

それはアップロードされた作品と同じように、作者や他の人、そして書いた当人の体内にさえ染み込んでゆく。

そして、これら評価やコメントもひっくるめた「作品」が、本当の意味でそれぞれの人に影響を与え始めるのは、むしろこれからだと私は思っている。

そこに芽生えるのが憎しみであるのか、思慕であるのかはわからないが。

 

※ここで余談。前にも書いた気がするがまた書く。

皆様は曽田正人先生の『昴』という漫画をご存知だろうか。

ここでは、主人公の昴というバレエの天才少女の前に、プリシラロバーツという巨星が出現する。二人は別々の場所でバレエの『ボレロ』という演目を主演する。

主人公の昴は麻薬のようなダンスで観客を魅了する。観客は恍惚となる。

それに対して、プリシラのダンスは悪くはないが静かで地味である。ある観客はプリシラもこんなものか、といって帰路につく。しかし、その夜、プリシラを見た観客は、耳の中でボレロの音楽が鳴り響くのを止められない。観客は、その感覚を、もはや言語化できない。プリシラは静かで地味に見える演技の中で、おそろしいほどの情報量を、観客に伝えていたのだ。観客は、その魔力的な「経験」をもう一度求める・・・といった話だ。

私はこのエピソードがメチャクチャ大好きである。未読の方にはぜひ一読を勧めたい漫画だ。

-------------------------------

まあそんなそんなわけで、今、私の中では、

 

・作品を作り

 

・コンテストという場に投げ

 

・評価と反応を得る

 

という一連の行為を通じて、己を知った。

同時に、この一年間のできごとの消化がようやっと始まったようだ。

おかげで、次に何をしたいかという欲求が、毎日クルクルと転換しながら、泡のように生まれてははじけている。

どうなるのかよくわからないが、自分がゆっくり変化していくのは面白い状態だ。

​ウディコンに出たからこその変化だろう。

とてもありがたい。

 

たぶん私は、生きている限りはなにか作りたい、と思い続けているような気がする。

その欲求を持った理由はよくわからないし、どこか不自然で、不純で、欺瞞に満ちて、不健康だと思うことは多々ある。

才能の有無もわからぬし、その欲求が自分をどこへ導くのかは謎である。

だが、私には受け取ったボールをどこかへ投げたい気持ちが存在する。

 

前述の昴もそうだし、この時代に日本に生まれたこと、自分自身の過去のクソみたいな失敗や、報われない想い、ウディコンの諸作品や諸評価からもなにか受け取った。

足にひげをスリスリしてくる猫からもなにかを受け取っている。

 

よくないものも、よいものも、無分別に受けとっている。

 

私は、そう、つまりエネルギーを受け取った。

実にさまざまなエネルギーだ。それをまた誰かに投げたい。

今回のウディコン作者の皆様はどんなエネルギーを受けとったのだろう。

次回以降にどんな変化を遂げるのかはすごく楽しみである。

 

そして、今回プレイヤーだった皆様はどんなエネルギーを受けとったのかな。

次は自分の番だ、自分ならもっと面白いゲームが作れる、と思う人もいることだろう。

 

エネルギーをネット掲示板に吐露する人もいるだろう。

SNSで語るのもよいと思う。

でも、できれば、せっかくこんな素敵なイベントがあるのだから、

もしゲーム作りたい人であるなら、いろんな気持ち、次こそ作品にしてみては、とこっそり思ったりもする。

あと、とりあえず思うのは、ウディコンの投票人数。

もっと増えるといいね。300人台じゃ少しさびしいや。

多くの人が投票したくなるような素敵な作品が沢山くれば、潮目は変わるかな。

 

 

・・・さて、ではこの記事の最後に、

この一年を通じて、自分自身の何が変化したかを伝えよう。

姿勢がすごくわるくなった。

筋肉がさらに衰えた。

前からゆがんでいた身体がさらに斜めにゆがんだ(スーパー銭湯に行って鏡を見てビックリした)。

体重が5キロ増えた(70Kg!柔道やっていたころ以来かも)。

髪が薄くなった。

 

 

どう、素敵でしょ。これがウディコンの・・・。

・・・・・・。

 

そうやって、世界は変化してゆく。

来年もまたお会いできたら何よりです。

bottom of page