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第11回ウディコン感想(2)

​~未完成で参加したこと~

19/08/25

はじめに言わなければならない。

結果として、『八人のアダム外伝』は未完成のままウディコンに参加し、

未完成のままウディコンを終えた。

一応、参加時の言い訳として、

初期版から全クリはできるようにはしていた(ワイハハシティに行くルートだ)。

だが、「あれがおまえのゲームのクリアなのか?」と言われれば、

私は無言で首を振るしかない。

『八人のアダム外伝』はウディコンが閉会したいまもって未完成作品である。

 

これはルールに抵触するのだろうか。

ウディコンの「規約」を見ておこう。

「体験版・一部の章のみなど未完成品は応募できません。全ての作品は完成品として評価されます」

なんともグレーである。

今回、運営様の寛大さで参加取り消しとはならなかったが、

規約違反といってよい範疇であろう。

 

『八人のアダム外伝』はウディコン中に数回のアップデートを行った。

そのスケジュールはこんな感じである。

7月25日 Ver1.00リリース 

8月12日  Ver1.01リリース(※1.03アップしたつもりだったが1.01だった)

8月14日  Ver1.03リリース

8月17日  Ver1.04リリース

8月18日  Ver1.05リリース 

Ver1.00は、最序盤以外イベントすら実装されていないヒドイ状態。

Ver1.03は、更新したにもかかわらずイベント不良が多く、ラスボスは唐突な二択である。

Ver1.04になって、ようやくラスボス三つのうちが一つだけ実装。

Ver1.05はウディコン中の最終版だが、ラスボスはやはり一つ。演出・システム含め、未実装要素は多数。

ああ、我ながら、ここまで書いて、初めて振り返ることができた。

コンテスト中はおっかなくて振り返ることさえできなかったが、これはヒドイ。

あまりにヒドイ。

なんでのうのうと参加できたのか・・・。

劣悪なVer1.00でのDL数は約200。

カタルシスのないVer1.03以前までで約300。

投票締め切り時で約350。

ウディコンの順位発表時での最終的な総DL数は372だった。

つまり、投票までで、一応ラスボス演出のあるVer1.04以降をプレイした人はわずか50DL。

そんな中でも、

Ver1.00と1.03を両方ともプレイしてくれた人がいるのも知っている。

このゲームは終盤の12月4週までいくだけでも3時間はかかる。

何かあるのかと思い、複数周してくれた人もいる。

それは、何か期待感があるからプレイしてくれたのだろう。

そういった反応をもらえることは、心底嬉しかった。

好意的な反応がなければ、

更新はVer1.03でストップしていたと思う。

少しでもマシなものを見せたくて、

なんとかタイトルの意味につながるエンディング部分まで見てもらいたくて、

必死でVer1.04と1.05をアップした。

この二つも、期待にこたえられるだけのものを用意できたかはわからない・・・。

私はこのストーリーを、プレイヤーの皆さんに

楽しんでもらいたかったから作っていた。

驚いて、没頭して、夢中になって、少ししんみりして、

色々な経験をしてほしいから作っていた。

なのに、多くの人にカタルシスのないモヤモヤを抱えさせてしまった。

この人たちと、作品の出会いを、台無しにした。

作品への評価や印象も、私への評価や印象も、もう戻らない。

出会いは一度きりだ。

それは作品の平均点が、コメントありのものだけから、

コメントなしも含めたときにガクッと下がったことからも判断できる。​

まさに無言の評価だった。

『八人のアダム』は、次の記事で詳しく語るが構想自体は古く10年ほど、

ゲームとしては去年の10月くらいからせっせと制作してきた。

一年弱の制作期間だが、

なんだかんだ全作業を合わせれば、700~1000時間はやっていたのではないだろうか。

それがどうしてこのようなことになったのだろう。

原因は、ただただ私の見通しの悪さである。

ウディコン寸前の私はこう思っていた。

「全クリできれば、一応は未完成品ではないと言い張れるのではないか。

コンテスト中にさっさと更新してしまえばいいのだ」

と。

違う、本当は、辞退するべきだったのだ、と今は思う。

 

だが、その時はできなかった。参加に囚われていた。

そもそもの話だが、私は、

私の作品が、誰かにとって意味を持つのではないかという期待から、ゲームを作っている。

本人の中に溜め込んでしまった発酵臭のするかたまりが、

実は価値のあるものではないか、と思いはじめる、創作者によくある病だ。

―もしそれらが価値あるものであるなら、

こんな自分の生きる意味も多少あるかもしれない。

いや、価値あるものであるはずだ。

おれはこれを価値あるものにしなければならない―

そんな思いがある。

早く反応がほしかった。

ウディコンは、多くのプレイヤーにじっくりプレイしてもらえる最高のチャンスである。

ただフリーゲームサイトにぽんと作品を投げるのとはまるで違う。

 

―あと一年、気力が持つかはわからない。反応が知りたい―

 

その焦りが判断を狂わせた。

もう一度言おう。

私が未完成作品を出したことで、

プレイヤーさんからは楽しみと時間を奪った。

作品はネガティブな印象と、本来の評価を受けられるチャンスを失った。

私も未完成作品を出す作者として評価を落とした。

ウディコンも未完成作のあるコンテストとして評判を落としたかもしれない。

誰も得していない。

だから、もしこれを読んでいる人の中で

来年ウディコンに出る予定の人がいるなら、

最低でもプレイヤーがエンディングまで楽しめるレベルにして

作品を出した方がいいと思います。

マジで誰も得しないよ。

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・・・さて。

このゲーム、というか

『八人のアダム』という物語に関しては、語ることが多い。

 

これまた語るべきか、語らぬべきかすこし悩ましい。

自作について語ることは無意味であるどころか、時として、かなり害悪であるとも思う。

作者の色や事情などしたこっちゃないよ、むしろ不純物だよ、と言う人は多いはずだ。

わかる。

私も若いころは自信を持ってそう思っていた。

作者の情報は作品の邪魔だと思っていた。

だが、私は「自分がもし突然死んだら」をけっこう考えてしまう。

 

私が明日にもパタリと死んだら、

『八人のアダム』がどういうものだったかを多少知るものは、

よく車で遊びに行ったNやT(まあこの人らは俺の話なぞ覚えちゃいないのだが)、

そして相方くらいだろう。

 

それもなんだか悔しい。

​だから少し書く。

 

作者に求めるものなどなにもない人はページを閉じてください。

​【第11回ウディコン感想(3)~『八人のアダムについて』~】へ続く→

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