日々のことあれこれ
18/10/28
これをよんでいる人はなんらかのSNSを利用しているだろうか。
ここでいうSNSは、Twitterとか、Facebookとか、Instagramとかだ。。
わたしがこれまで利用してきたSNSはTwitterだけである。
世で起きていることや色々な人の日々のあれこれをのぞきみするのにはちょうどいいサービスである。
だが、なんだか疲れてしまって、一週間ほど前から小休止している。
手持無沙汰だったり、
わたしが子供のころ、つまり1980〜2000年すぎまでは、そういったものはほとんどなかった。
だがネット社会とスマートフォンの普及により、今はさまざまなSNSが存在する。
それは、これまで見えていなかったものが可視化されたことを意味する。
たとえば、あるイラストがアップされる。
それに一万のいいねがつく。
それをみた私は思う。
「ああ、これはいい絵だ。これだけのいいねがつくのもわかる」
もしくはこう思う。
「これのどこがいいんだ? ありがちだし、オリジナリティも感じないし、スケールも小さい。これよりいいものなんていくらでもあるのに」
問題は、ネットワーク上では、この後者の感想が多いことなのである。
はっきりいえば、この後者の感情は一万いいねがつくことに対する嫉妬も多分に含んでいる。
だが、SNSが発展する前にも、世界には価値の理解できないものばかりがあった。
だが、それの価値に目に見える数字はついてなかった。
なにがいいたいかというと、価値が理解できないものが目につくことが増えた。
だが、3いいねしかついていないものと、30000いいねがついているものの間にそんなに価値の違いがあるだろうか。ほとんどの場合はない、と思っている。
なのに、人は数字を見てしまうと、それを価値の差であるかのような印象を受けてしまう。それで判断する。
どこかのアイドルグループが、投票で人気の差を明らかにすることをしているが、私はあれが心底嫌いである。
価値の可視化。それはわかりやすいから訴求力があるが、同時に愚劣でもある。
それを続ける限りあのアイドルグループに対していい印象を抱くことはないだろう。それはそのグループに所属しているアイドルの責任ではなく、それをいまだにやらせている大人が大嫌いなのだ。要は金になるからやっているのだと思う。恥を知れ。
差があるのは、その存在を認識している人の数の差だ。
俺は気に入らないだけかもしれない。
世界が自分の思い通りでないことが。
そのことがとても怖いのだ。
自分にとって価値の理解できないものばかりが評価される世界だとしたら、
どうやって生きていけばいいのだろうと考えてしまうから。
その居心地の悪さを感じて、死ぬまで生きてゆくしかないのだろうか。
だが、誰かが思い通りの形にした世界は、それはほかの誰かにとっての居心地の悪い世界だ。
それは暴力という。
気に入らないから思い通りになれなんて、暴力以外の何者でもない。
でも、気に入らないことは多い。
あいつら気持ち悪い。
そういっている自分も気持ち悪い。
それなのに、生きていれば価値の変わることはある。
これまで見向きもしなかったものが、
とてつもなく価値を持つものであることがある。
変化だ。感情の相転移。
最近、Spotifyという定額音楽サービスを利用し始めた。
これは、ダウンロードにかかる通信料などを除けば、登録されている音楽をどれだけ聴いても定額というサービスだ。
最近の私は音楽をほとんど取り入れない生活を送っていた。
それは、ただ単にCDをコンポにセットするのが面倒だったからだ。
なにか聞きたいときは、YouTubeで映像を見ればいい。音楽がなくても生きていけた。
自分には価値がないのだろうか?
わからない。
だから、続けろ。
誰かが自分を見つけるまで、続けろ。
いろんな人に認められようとするから苦しいのだ。
他人は理解できない。もちろん、同じ社会の住人ではあるから、
互いに気を使いながら生きていく存在ではあるけれど、
それ以上でもそれ以下でもない。
別の人生なのだ。
14歳のころ、自意識のかたまりだったひざを抱えた少年、
世界に対して言葉にならない嫌悪と疑問を抱えた少年に向けて書け。